Wafty’s diary

情熱は止まらない 私達は進み続ける

東日本大震災から2年

未曾有の被害をもたらした、東日本大震災から2年――――

2011年3月11日午後2時46分ごろ、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。
宮城県北部の震度7をはじめ、宮城、福島、茨城、栃木で震度6強を観測した。
津波が東北地方の太平洋沿岸を始めとする各地を襲うとともに、
東京電力福島第一原子力発電所における事故を引き起こした。
警察庁によると2013年2月27日現在で死者1万5880人行方不明者2964人
震災直後は約47万人が避難所などでの生活を余儀なくされた。
2013年2月現在でも避難者等は31万5000人にのぼる。

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被害( 注: 2013年2月27日現在、警察庁発表。)

日本国内
死傷者15,880人 行方不明者2,964人 負傷者6,135人
日本国外
死者2人 行方不明者5人

被害総額 震災被害のみで16 - 25兆円 (注:3月23日発表の日本政府による試算。原発事故によるものは含まない)
被害地域 岩手・宮城・福島の太平洋岸を中心とした東日本など




県内で死者4673人、行方不明者1169人。
県のまとめでは、被害の大きかった陸前高田市では死者が1556人。
県内に111ある漁港のうち108が被災した。気象庁が行った痕跡調査では、
岩手県沿岸で16メートル以上の津波があったことが確認された。

県北部の栗原市で最大震度7を記録。県内で死者9535人、行方不明者1310人。
県が2013年2月に発表した被害状況によると、被害が特に大きかった石巻市では
関連死も含めた死者は3490人にのぼった。県内142の漁港すべてが被災した。

死者1606人、行方不明者211人。
東京電力福島第一原子力発電所事故などの影響で、県の災害対策本部によると、
県内外あわせて15万人以上が避難生活を送っている。
楢葉町富岡町大熊町など、警戒区域または計画的避難区域だったことのある
11市町村について、除染特別区域(直轄地域)として国が直接除染を行う。






あの日、私は

3月11日のあの日。
私達は未だかつて経験した事の無い未曾有の大災害を目の前にしました。
M9.0という予想を遥かに超えた規模の大地震が東日本一体を襲いました。
直ぐにメディアは地震関連の情報に染まったのを今でもはっきり覚えています。
そして、ふと次の言葉が頭を過りました。
 
津波が…とんでもない大きさの津波が……来るんじゃ…」
 
その言葉を口にした瞬間、大津波警報が発令されました。
あの時は何もかもが混乱していました…何もかもが…でも報道機関があまりにも静かだった記憶があります。
冷静で静かすぎる…あの状況が本当に不気味でした。まるで津波が起きていないかのように見えたからです。
 
そして約1時間後、名取の映像を見た瞬間。自分は言葉を失いました。
キャスターの声も無い、轟音の音も無い、ただヘリコプターの音だけが聞こえる映像…
その映像には真っ黒に染まった津波が家を…車を…全てを…呑み込んでいる様子が映し出されていました。
そして目の前で人が明らかに消えていったのです。必死に逃げていた人を一瞬にして津波は呑み込みました。
誰もがその映像を見た時、言葉を失っていました。
あまりにも酷く…悲惨で…現実として受け入れられませんでした…でも、悪夢はこれだけでは無かったのです…
 
時間が経つにつれて、地獄絵図と化した街の様子が次々と入ってくるのです。
そして、その頃になって初めて東日本一体が大混乱になっている事を知るのです。
直ぐに東京にいる友人の安否を確認し、ブロ友の方の安否も確認して一安心…かと思ったのも束の間でした。
夜になってまた新たな脅威が発生するのです。帰宅困難者には特に異様な印象を持ったのを覚えています。
品川駅前の道路一体が全く動いていないのです。その中に救急車も立ち往生していました。
それどころか車が通るはずの道路を人が沢山歩いているのです。この異様な風景に危機感を感じていました。
これがもし、首都直下だったらどうなっているんだ…と。
そして、東北沿岸では大津波が去った後…新たに地獄絵図が発生していました。
海が燃えている…船舶などから漏れ出た燃料が原因で海が燃えている様に見えたのです。
もしこの燃える火の中に生きている人達がいたと思うと…本当に…悲惨でした。
 
そして、翌日になって事態は追い打ちをかけるように悪化。
福島第一原発が政府の発表よりも遥かに深刻だという事が明らかになってきます。
混乱を極めた原発内で作業していた人達は、外の様子も把握しきれないまま必死に作業をしていたはずです…
想定されていない全電源喪失。その中でも作業員の方達は決死の覚悟で被害を抑えようとしていました。
しかし…時間は…待ってくれませんでした。
本震発生から約一日後、福島第一原発は水素爆発を起こします。
そして更に立て続けに爆発が発生。この時になって、手に負えない状況だという事が鮮明になりました。
一気に放射能は大気中に拡散され、原発から半径30km以内の住人は避難対象という結果になりました。
メルトダウンという最悪の状況が分からなかったあの時…とにかく情報が欲しかった…正確な情報が…
今になってあの時の事故が如何に悲惨だったかが分かってきました。福島第一原発から放出された
セシウム137総量は6月時点で、広島原爆の約168個分であったと言われています。
今回の事故は人災と言わざるを得ないのか…しかし、想定が甘かったのは事実でした…これだけは確かです。
この事故は私達に原発という存在を改めて考えさせられました。
今まで私達が如何に原発に対する知識、備えが不十分だったことを浮き彫りにさせた今回の事故は…
日本人に突き付けられた新たな課題だと思いました。








上のリンクにある過去記事は、本震発生の3月11日から約一ヶ月後の4月12日まで
私が当ブログで記した震災による被害等の一連の記録です。
現在も震災の傷跡は至る箇所で残っています。被災地の早期復興を心よりお祈りいたします。






3年目の復興へ

あの震災から2年が経とうとしています。
被災地は、やっと瓦礫が半分取り除けたか取り除けてないかの状況です。
十分な復興が進まないまま今も仮設住宅には多くの方が住み、日本はまた春を迎えようとしています。
月日は流れ、季節は変わっても被災地の様子を見る度に時間だけが止まっている……そんな二年でした。

私達はあまりにも多くのものを失いました。あまりにも…あまりにも…多くのものを失いました。
あの日以降、日本は大きく揺れ動きました。今も揺れ動いています。課題は山積し続けたままです。

でも、日本は立ち直れるはずです。

必ず。

必ず。


私は信じています。
西日本の人間に何が分かるんだと何度も言われようが、私は信じ続けます。東日本の底力を。




あの日を乗り越えた全ての人達へ。

「生きてくれて、ありがとう。」





被災者の皆様の無事と早急な復興を心からお祈りいたします。 がんばろう、日本。

――――― 2013.3.11 管理人 著